MLBドジャースの大谷翔平選手が、花巻東高校時代から大切にしている座右の銘。
「真剣にやっていたら知恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いい加減だと言い訳ばかり」
戦国武将・武田信玄の言葉です。寮のベッドに手書きの紙を張っていたそうです。
武田信玄(1521年 – 1573年)は、甲斐の国(現在の山梨県)を支配していた名将。「甲斐の虎」と呼ばれた彼の言葉は、戦略的な知恵や人生哲学が色濃く反映されています。
病に倒れ享年52歳という短い人生を終えましたが、いまだに人々の心に生き続ける言葉を集めました。
武田信玄の名言
1「勝利を収める者は、心を強く持ち、戦を知り、勇気を持って臨む者である」
武田信玄は戦の巧者として知られ、戦闘において最も重要なことは、冷静かつ勇敢であることだと教えてくれます。また、戦を理解し、勝利に導くためには、心の強さが不可欠であるという教訓が込められています。
2「風林火山」
これは信玄の旗印としても有名で、四つの漢字がそれぞれ異なる意味を持っています。
- 風:風のように素早く行動する
- 林:森のように静かに待つ
- 火:火のように一気に攻撃する
- 山:山のように動じず堅固でいる
3「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」
孫子の兵法の言葉に似ていますが、信玄自身もこれを重視していたと言われています。相手の強みと弱み、そして自分自身の強みと弱みを理解することで、戦において無駄なリスクを避けることができ、常に有利な立場を保つことができるという意味です。
4「戦は数ではない、智恵で勝つ」
信玄は兵力が劣る場面でも、知恵と戦略で敵に勝つことができるという信念を持っていました。この言葉は、単に力を使うだけでなく、戦術や策略を駆使することが勝利の鍵であるという考えを表しています。
5「一日一生」
日々の生活を大切にし、今日が人生で最も重要な日だと思って過ごせという意味です。武田信玄自身が、戦場で命を懸けている立場であったため、一日一日を大切にし、全力で生きることの重要性を説いたものです。
6「人の命は、一期一会」
この言葉は、人生の儚さを感じさせるもので、出会いを大切にし、一期一会の精神で生きるべきだという教えです。戦国時代の武将として、信玄は常に死と隣り合わせの状況にあり、そうした生死を意識した言葉が多いです。
7「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
これは、信玄の政治哲学を象徴する言葉です。人こそが城、石垣、堀であり、領国を守るのは民や家臣の心であるという教えです。
8「勝つことばかり知りて、負けること知らざれば害その身に至る」
勝利だけを追い求めて、敗北から学ばなければ、大きな失敗を招くという戒めの言葉です。謙虚に自己反省する重要性を説いています。
9「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」
意志と行動の重要性を説いた言葉で、行動しなければ、何も生まれないことを諭しています。
のちに、上杉鷹山が「なせば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」と詠んでいます。強い意思を持って成せば実現できるのに、結果が伴わないのは、成し遂げようとする意志が弱いからだと戒めています。
10「主は家臣を使うものにあらず。家臣と共に働くものなり」
主君と家臣の関係は上下の支配関係ではなく、共に働き支え合うべきだという理想を説いています。
武田信玄の人物像
信玄の本名は晴信で、のちに出家して「信玄」と名乗りました。戦国時代を代表する名将の一人で、その卓越した政治手腕や軍事能力、戦略家としての才覚から「甲斐の虎」として恐れられました。
政治家としての信玄
武田信玄は、甲斐国内の統治を安定させ、領国経営に優れた手腕を発揮しました。治水事業に力を入れ、特に「信玄堤」と呼ばれる堤防の整備は有名で、これにより農業生産力を向上させています。また、信玄の政策は領民に配慮したもので、領内の経済発展や民衆の生活向上を重視しました。
軍事的才能と戦術家としての信玄
武田信玄は戦国時代でも屈指の軍略家として知られ、「風林火山」という戦旗に象徴されるように、孫子の兵法を重んじた戦略を用いました。特に川中島の戦い(上杉謙信との戦い)は、日本史上屈指の名勝負として語り継がれています。謙信と信玄の戦いは幾度も繰り返されましたが、決定的な勝敗はつきませんでした。
人間性と教養
武田信玄は教養人でもあり、和歌や漢詩を嗜む一面がありました。また、仏教を信仰し、自ら出家して仏教的な名前「徳栄軒信玄」を名乗りました。家族や家臣を大切にする面もありましたが、父・武田信虎を追放するなど、非情な判断を下す冷徹な面もありました。
外交戦略
信濃、駿河、遠江などの周辺諸国への進出を図りながら、織田信長や徳川家康、北条氏康といった有力な大名と激しく争いました。一方で、外交にも優れ、時には敵対勢力と同盟を結ぶ柔軟な対応を見せています。
晩年と死
晩年には上洛を目指し、織田信長・徳川家康と対峙しました。1573年、信玄は上洛途上で病に倒れ、52歳で死去しました。その死因については結核や脳卒中などの説があります。信玄の死後、武田家は衰退し、最終的に織田信長や徳川家康によって滅ぼされました。
武田信玄は、領国経営の手腕や戦術、そのカリスマ性から名将として高く評価され、「風林火山」の旗印や戦略思想は、現在でも多くの人々に語り継がれています。